« トマト通信(その10) | トップページ | レトロラベル2本! »

2006/09/24

【会津センチメンタルジャーニー:伍】会津武士道を思った日。

Auzusj5

会津若松の旅。
ひとり旅の良いところは、たっぷりと本を読んだり考える時間があるという事で。
行きの車中では会津には関係の無い本を読んでいましたが、初日に鶴ヶ城の会津戦争の展示を見てからは、やはり会津にまつわる本を読みたくなりました。

丁度ホテルの一階に書店があり、おあつらえ向きに有った会津コーナーで選んだ書籍。
Onnaaizusensou
「女たちの会津戦争」星亮一著。

戊辰戦争での会津は、まさに国(藩)を挙げての戦争だったわけで、そこに老幼の区別は無かったわけですね。
男たちはもちろんの事、女子供も共に戦ったわけです(白虎隊や娘子隊が有名ですね)。
男はほとんど出陣しており、残された家庭は女達が守っていたのですが、官軍が城下に殺到すると数々の悲劇が起こります。
ある一家は籠城の際に足手まといになる事を恐れ一族で凄惨な自刃をし、ある一家は官軍から逃れ何ヶ月も山野を彷徨うといった数多くの不幸が生まれました。
藩主・松平容保と共に籠城して戦った女たちもいます。
物量に勝る官軍が打ち込む砲弾が炸裂する中、怪我人の看護や炊き出し、弾丸の製造などに目覚ましい活躍があったようです。
砲撃によって火の出た屋根に飛び乗り火消しをしたり、炸裂する寸前の砲弾を着物にくるんで池に投げ入れたり、男でもなかなか出来ない行動だったようです。
この中から、後の明治の世で素晴らしい活躍をする女性たちが何人も出ているのですね。

弟の形見の軍服を着込み銃を担いで入城、狙撃や夜襲に活躍した山本八重子はやがてキリスト教に帰依、新島襄と結婚。同志社大学の前身・同志社英学校の設立・運営に活躍します。

山川捨松は明治4年、女子留学生として津田梅子(津田塾大学創設者)らと共にアメリカへ留学、名門女子大バッサーカレッジに進学。帰国後は鹿鳴館の華と謳われ、大山巌夫人となります。

彼女たちの数奇な人生は、自らの出自である会津藩が無くなった事によって作られたものではあるでしょう。
しかし、会津藩の教育によって培われた精神が、その後の飛躍の基礎となっているのは間違いないような気がします。

会津藩の教育といえば、まず挙げられるのが「什の掟(じゅうのおきて)」です。
これは礼儀の大切さ、卑怯なふるまいの卑しさ等を諭す、会津藩の藩校にて繰り返し聞かされる道徳なのですね。

この「什の掟(じゅうのおきて)」を、現代風にアレンジしたものが、会津若松の街角のいたるところに掲げられています。
Aizuccosengen
↑あいづっこ宣言。
 ならぬことはならぬものです。

町を散策している際に、歩道を掃除している小学生が3人いました。
彼等から「こんにちは」と声をかけられ、あわてて「こ、こんにちは」は返事を返しました。
会津藩の教えは、今も会津若松に生きているのでしょうか・・・。

Aizujingunzo
↑書店にはこのような雑誌もありました。もちろん購入。会津の酒造会社を紹介する連載記事も載っていて嬉しかったです(この号は会津坂下の3蔵で、廣木酒造や曙酒造など)。

|

« トマト通信(その10) | トップページ | レトロラベル2本! »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/87121/12023368

この記事へのトラックバック一覧です: 【会津センチメンタルジャーニー:伍】会津武士道を思った日。:

« トマト通信(その10) | トップページ | レトロラベル2本! »