甲州屋光久!
以前池袋にあった甲州屋という地酒店。故兒玉光久氏の店である。
氏は酒屋の跡取りなのであるが、自らの代になってからナショナルブランド酒の販売を拒み、地方の高品質な地酒の発掘と販売を目指す。これが昭和50年頃。
当時、ようやく越乃寒梅が知られるようになっており、徐々に人々の目が地酒に向かって行く時期であった。しかし一般的には灘・伏見の大メーカーが増産を続けている時代でもあり、銘柄の知られていない地方の小さな蔵の酒は、いくらうまくとも売れる時代では無かった…。が、氏は志を共にする蔵元や酒販店と悪戦苦闘しながら「八海山」や「亀の翁」などを世に出して行く…。

先日、西小山の「かがた屋」さんで頂いた高瀬斉氏の漫画「甲州屋光久物語」を読了した。光久氏の奮闘ぶりが細かく描写されており、先駆者はとてつもない苦労をするものだと改めて実感した次第である。「地酒発掘に命を賭け、若くして倒れた男の生涯」とひとことで言えばカッコ良いが、当然のごとく金銭的な苦労がつきまとい、家族を犠牲にしての壮絶な生き方は真似を出来るものでは無い。その辺り一切美化をする事なく描いており、深い共感を呼ぶ。
そうなのだ。いかに夢に生きる男とて、日々飯を食わねばならぬし食わせねばならぬ。坂本龍馬だって土方歳三だって、そういう才があったればこそ歴史に名を残したとも言える。
光久氏の当時の仲間として「三ツ矢酒店」さんや「味のマチダヤ」さんの名が出てくる。そんな魁がいたればこそ、現在毎夜各地の地酒を味わう事が出来るのだと感謝の気持ちが湧いてくるではないか。
司馬遼太郎氏の小説にある有名な一説(以下大意)。革命はおおよそ三世代で成就する。最初に革命の思想を叫び広く伝播させる者(吉田松陰など)。これらは皆志半ばで倒れる。その次にその革命を強烈な実行力で推進させる者(坂本龍馬や高杉晋作など)。これらもまた倒れ、そして最後に革命の総仕上げを行い、その果実を刈り取る者(伊藤博文や山県有朋)がいる。
光久氏は地酒界における吉田松陰の役目を担ったのではないだろうか…。
兒玉光久、享年43。甲州屋は、今はもう無い。
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コメント
不躾にて失礼します。故人に鞭するようですが、甲州屋児玉さんは酒蔵元は多くは訪ねてないですよ。私が初めて児玉さんにお会いしたのが33年程前で、その時は私も児玉さんも数軒の蔵元しか訪ねてないと思います。本や人ずてなどの情報で児玉さんの事をお知りになられたと思いますが、児玉さんの師匠は同じ池袋にあった鴨料理専門店「笹舟」です。思想は「金八先生」です。popなどに盛んに金八の言葉が使われていました。八海山は私が児玉さんに紹介しました。
当時地酒を売る苦労は私のような地方では大変でした。今では名だたる銘酒も買って飲まれたお客様に返金したことも度々ありました。越の寒梅を販売していたのに自殺なされた酒店主もしっています。その中で何を・・・。
投稿: cou | 2012/12/20 10:25
《couさん》
おっしゃるように様々な書籍などから得た知識で書いた内容の薄い記事です(汗)。知ったような事書いてお恥ずかしい限り。
今では地酒専門の店も多くありますが、先人のご苦労を思うと頭が下がります。
ずいぶん前の記事ですが、コメントいただきありがとうございました!
投稿: 地酒星人 | 2012/12/20 19:11
光久の弟です。75歳になりました(光久の5歳下)。 姪っ子より、この書き込みの 事を本日知りました。 師匠は笹舟は違います!。 COUさん・・誰か?わからんが 死ぬまでに 訪ねた蔵の数は、数えられない 予定日に帰ってこず、何度怒ったことか・・ 寒梅取り扱い酒屋が自殺’の話は初耳。思い当たらず。・・
当時の三ツ矢さんの弟とは 同じ境遇だね’で仲良し 秀吉(天下人)の弟・秀長の立場で縁の下の力で 知られずじまい。 ・・・ 光久の酒 語るに富士宮のよこぜき 九州の平嶋 足立区のかき沼 が、私と一緒に梅錦蔵元へ 行ってラベルを決めた。
かがた屋は 勉強会に後から入って ずうずうしくいろんな蔵元を 紹介してくれで 閉口した。 売れてる酒が欲しいだけ! ブームに乗って儲けたいだけ。 我々が共通して持っていた 良い酒を広めたい とは無縁の人で 大っ嫌いな人物。 マチダやさんとはたまに会っただけ 私が配達に追われ 話をするひまなどなかった。 池袋からタウンエース満載で 新橋・銀座・歌舞伎町などへ行ってたが 22時の駐車場のリミットに間に合わせるのが 大変だった。
当時 年商が1億2千万あったが 光久の蔵めぐりで 金の余裕はなかった。 お供でついていった 客の負担まで・・
弟としては、腹立つことばかり・・ 光久自身の不摂生で
癌がわかったときは、すでに手遅れで 一人娘と疎遠だったのが不憫だった。
投稿: 児玉光利 | 2025/01/31 20:08